初めまして、コミュ障系ブロガーの古味正太郎(こみ しょうたろう)と申します。
現在は金融関係の会社に勤務している40代のサラリーマンです。
対人コミュニケーションのある仕事にストレスを感じており、うつ病で休職していたこともあります。
当ブログでは、そんなコミュ障が生きていく方法を模索していきたいと思います。
ここでは、これまでの私を自己紹介させていただければと思います。
小学生
小学生時代は、地元の公立小学校に通う普通の小学生でした。
当時はコミュ障の自覚は無く、友達とも普通に楽しく遊んでいました。
駄菓子を食べながら友達とTVゲームに熱中した時間は、今思えば本当に幸せだったと思います。
中学生
地元の公立中学校に進学しました。
野球部に所属していましたが、動体視力が低く、球技は致命的に向いていませんでした。
当然、レギュラーになれず、途中で退部してしまいました。
授業についていけないこともあり成績はパッとしなかったのですが、塾に行ってテキスト中心の勉強をするようになって成績が向上しました。
この時には自覚は無かったのですが、耳で聞いた情報を処理するのが苦手というコミュ障特有の症状が早くも現れていたのでしょう。
高校生
第一志望の県立高校に落ち、第二志望のソコソコのレベルの私立高校に進学しました。
高校には弱小だったのですがラグビー部があり、初心者ばかりだったので入部しました。
ラグビーは試合中のコミュニケーションが大切なのですが、その声が上手く解釈できず、コミュ障には大変つらいスポーツでした。
学業面では、中学生の時にあまり勉強せずに高校に受かったことで、勉強を舐めてしまったこと、
それに加え、耳で聞いた情報を処理するのが苦手という症状が本格的に現われ、授業についていけなくなったことで、
全く勉強をしなくなり成績は低迷しました。
当然、現役の時にはどこの大学も受からず浪人することになりました。
浪人生
予備校に通うことも考えたのですが、休憩所でタバコを吸っている陽キャラの雰囲気が嫌になり、参考書を用いて自分で勉強する宅浪の道を選びました。
このことが、結果として上手くいきました。
コミュ障の自分には、耳で聞くより文章を読み込む勉強スタイルが合っていたのです。
なんとかマーチレベルの大学に合格することができました。
大学生
お酒が弱かったこともあり、陽キャラたちのノリについていけず大学の雰囲気に馴染めませんでした。
サークルもすぐやめてしまい、友達もあまりできず、地元の友達ばかりと遊んでいました。
大学時代にはあまりいい思い出が無いですね。
就職活動では、なんとか金融関係の会社に入ることができました。
社会人
隠れコミュ障だった20代
私の会社では、20代の若手は小規模な会社の営業担当者になることが多いです。
そしてこのことは、コミュ障であることを覆い隠すことにもなってしまいます。
それほど規模の大きくない顧客の案件は、定型的な業務が中心です。
タフなコミュニケーションやクレーム処理などはほとんどなく、コミュ障でもなんとか務まるのです。
コミュ障が顕在化した30代
私も20代の頃はなんとかなっていたのですが、30代になり転機が訪れます。
転勤した支店で、それなりの規模の会社を担当することになったのです。
このような会社は、経営者も百戦錬磨であり、担当者にはタフなコミュニケーションが求められます。
他社からのアプローチもあるので、経営者に「担当者が使えない」と思われたら、すぐに取引を奪われてしまうのです。
そんなことになったら、私の会社では上司にメチャクチャ詰められます。
耳で聞く情報を処理することが苦手な私は、経営者との会話を通じて関係性を築いていくことができず、次々と他社に取引を奪われるようになってきます。
しかもその時の上司がみんなの前で怒鳴るというパワハラ気質であり、「お前、お客さんの所に一人で行って謝ってこい!」と言って部下を突き放すタイプでした。
顧客と上司の板挟みで心身をすり減らした私は、うつ病を発症し休職することになります。
そして現在
休職から復帰したものの、私は営業失格の烙印を押され、バックオフィスの部署を転々とすることになります。
しかし、バックオフィスでは顧客とのやり取りはありませんが、上司や同僚との対人コミュニケーションは発生します。
どこへ行ってもコミュ障にはストレスを感じる環境なのです。
バックオフィスの部署でも、対人関係のストレスからうつ病を発症し休職したこともあります。
そこで、これからの人生を考えていくために、このブログを始めました。
このブログを通じ、対人コミュニケーションが無くても生きていける道を模索していきたいと思います。